てぃーだブログ › 泉崎旗頭保存会 › 泉崎旗頭歴史 › 「那覇四町」

2013年09月12日

「那覇四町」

琉球王朝時代 ~海外貿易の窓口~
昔の那覇は、那覇川(現国場川)、安里川の注ぐ湾に浮かぶ島”浮島” でした。 1451年尚金福が長虹提を築いて那覇と崇元寺の前を結ぶに至って首里との交通の便が開け、泊や那覇港の繁栄につれて若狭町、泉崎を含めるようになり、那覇四町(西、東、若狭町、泉崎)と呼ばれる町を形成するようになりました。 「唐、南蛮寄り合う那覇泊」と歌われた那覇は、海外貿易の窓口として発展し、商都としてにぎわいをみせました。
(那覇市のあゆみ)より

「那覇四町」

19世紀に入ってからは西洋諸国の異国船が来航し、日本開国の前年の1853年にはペリー提督が那覇に上陸しました。 1879年(明治12年)の廃藩置県により、那覇に県庁が置かれたことにより、首里に代わって沖縄県の政治・経済・文化の中心地となりました。 同年、泊、久米、久茂地を編入し、近代那覇の行政区域の基盤ができ、1896年(明治29年)特別区制の施行により、那覇区となりました。 1903年(明治36年)土地整理事業の完了にともなって真和志より牧志、小禄より垣花を編入し、さらに1914年(大正3年)には、壺屋を真和志村から、そして新たに、埋立てた旭町を加え、また町名を設定して 24ケ町となりました。

戦後那覇は、米軍の全面占領下にあり、立入禁止区域となっていましたが、1945年(昭和20年)11月産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊が壺屋一帯に入域し、1946年(昭和21年)1月3日付けで糸満地区管内壺屋区役所が設置され、那覇復興が始まりました。 その後民政府などの中央機関が漸次那覇に移転し、1949年(昭和24年)12月9日、米軍政長官シーツ少将は、那覇を沖縄の首都とすると発表。 その後、旧那覇市街が漸次解放されるようになり那覇は、再び繁栄をとりもどしました。 1950年(昭和25年)8月1日みなと村を編入、さらに1954年(昭和29年)9月1日、首里市、小禄村を合併しました。 1956年(昭和31年)には、立法院で首都建設法が制定され那覇は沖縄の首都として整備されることになり、1957年(昭和32年)12月17日には懸案の真和志市との合併を実現していっそうの発展をとげました。
(那覇市のあゆみ)より



同じカテゴリー(泉崎旗頭歴史)の記事

Posted by 泉崎旗頭保存会 at 16:30│Comments(0)泉崎旗頭歴史
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。